都営バスの軌跡-PAST

都営バス100年のあゆみ

1924-19451章 創業当初の東京市電気局

1911年8月1日、東京市は東京市電気局条例を公布し、東京市電気局が開局した。市内軌道事業、電気供給事業の経営を実施し、東京都交通局の前身である。

関東大震災と市営バスの誕生

電気局が開局すると同時に、路面電車と併せて市営での運行を計画していた交通機関が、乗合自動車(バス)であった。自動車は高価なものであったため一部の資産家などの奢侈品にすぎず、路面電車や人力車のほか、馬車や荷車などが市内の主要な交通機関として大きな役割を担っていた。
東京市は、電気動力による乗合自動車の運転を計画していたが、計画が思うようには進んでいなかった中、1923年9月1日午前11時58分、関東一帯は、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震に見舞われた。東京を中心に埼玉、千葉、神奈川、茨城、栃木、群馬、山梨、長野、静岡など各県で家屋・建物の倒壊や崖崩れなどが起こり、死者及び行方不明者は約10万5,000人、全壊、焼失等の被害を受けた家屋は約37万棟にも及んだ。
交通機関の状況をみると、総じて鉄道の被害は甚大であった。また、電気局が受けた被害も大きく、運転不能となり、市内各所で立往生しているうちに火に包まれて焼失した市電が400両近くに及んだ。さらに、翌2日にかけて新宿、本所、有楽町、三ノ輪、錦糸堀などの車庫や浜松町の工場が火災に遭い、そこでも車両が焼失した。焼損した軌道橋には、汐見橋、中ノ橋、永代橋、吾妻橋、新川橋、業平橋、御茶ノ水橋、厩橋、築地橋、和泉橋、小川橋などがある。
関東大震災発生後、電気局は軌道事業の復旧に全力を注いだが、その一方で、市民の足を確保する応急処置として、市営の乗合自動車の運転を計画した。関東大震災によって東京市街の大半が破壊され、鉄道・軌道事業の復旧には相当の時間を要することが予想された中で、開業が比較的容易な自動車輸送が注目されることとなったのである。
電気局は、直ちに自動車車両1,000両(後に800両に削減)をアメリカのフォード社に注文した。また、1923年10月17日には電車乗務員の中から自動車運転手志望者1,000名を募り、陸軍自動車隊、基督教青年会自動車部、セール・フレーザー商会、日本自動車学校、帝国自動車学校における教習で運転技術を習得させた。
翌1924年1月11日には試運転を終了し、同月18日、巣鴨─東京駅前間、中渋谷─東京駅前間の2系統で、車両44両による運転が開始された。震災から4か月、計画決定から3か月と、短期間での開業を実現し、同年3月16日には20系統148kmの予定路線全てが開業した。市営バス、現在の都営バスの誕生である。

初期の市営バス「円太郎」の活躍

こうして運転を開始したバスの車体はフォード社製の1トン半トラックシャシーを11人乗りとしたもので、アメリカ家畜輸送用格子ボディーを改装して車両に用いた。市内交通の応急処置として実用性を第一としていたために、乗り心地はあまりよくなく、1台の価格も東京市街自動車の「青バス」が1万2,000円であったのに対し、市営バスは布幌付で1,800円余と7分の1であった。トラックを改装した急造の車体がかつての「円太郎馬車」を連想させることから、市営バスは「円太郎」と呼ばれて親しまれた。
なお、「青バス」が当時、女子車掌を乗せたツーマンカーであったのに対し、円太郎は運転手のみのワンマンカーであった。運転開始当初、平日は7時から11時、15時から19時までのラッシュアワーを中心に時間制で運行し、日曜及び祭日は7時から19時まで通しで運転が行われた。巣鴨線、渋谷線の2系統で乗客数は1日平均7,449人と、市電の輸送力低下を補う代替機関としての機能を発揮したのである。

円太郎バス
円太郎バス
現存する円太郎バス
現存する円太郎バス

バス事業の存続と拡張

こうして発展していった市営バスは、日本の交通史上初の本格的な都市内交通機関としての乗合自動車であったが、市電の復旧に伴って利用者数が伸びなくなり、収入も漸減傾向にあった。また、警視庁による市営バスの営業許可の期限は、1924年7月末日までであったため、市参事会は、予定どおり市営バスを廃止する方針を議決した。
しかし、同年3月の段階でも1日平均乗客数が5万4,000人だったことからもわかるように、市営バスは既に市民生活の中に定着しつつあった。存続運動が展開されたことに加え、多額の車両購入費を費やしていた状況なども踏まえて、同年7月26日、市会は市営バスの存続を決定した。

赤襟嬢(女性車掌)
赤襟嬢(女性車掌)

電気局は、存続決定と同時に再スタートを切るべくまず、同年8月1日から漸次、運転系統を20系統から9系統に、車両を800両から302両に縮小し、運転時間を7時から22時までに延長した。他方で、車両の改造を行い、同年12月23日から新装車の運転を開始した。女性車掌の配置車両の改造と併せて、1924年12月、従来のワンマン制と主要停留所で乗車券を販売していた出札手を廃止して、女性車掌を乗務させることとした。赤襟で紺サージのワンピース姿であったことから、「赤襟嬢」と呼ばれて親しまれた。

赤襟嬢(女性車掌)
赤襟嬢(女性車掌)

1925年に石川島造船所からイギリスのウーズレー車を、1927年にアメリカのガーフォード・シボレーとフォードを購入した。翌1928年に購入した大型ガーフォード車は定員34名、全長7.14mで、初期の円太郎バスが11人乗りであったことを考えると、本格的に開始されてからわずか3年の間に驚異的な進歩をみせたといえる。
営業所や車両等の整備に伴って営業路線も増加し、1929年度には、系統数21系統、1日平均運転キロ数5万2,000km、営業路線キロ数112km、1日平均乗客数11万9,000人と、1924年3月の2.2倍となった。

ウーズレー車
ウーズレー車
バスを洗車する様子
バスを洗車する様子

市営バスの不振

市営バスは1929年度までに大きく成長したが、世界恐慌による日本経済の不況、競合交通機関の発展により、その後は経営環境が悪化し、利用者も減少することとなった。競合交通機関の中でも、特に青バスをはじめとする民間バスとの競争が激しかった。
電気局では不振からの脱却を図り、1931年6月10日、電車との協調主義をとって運転系統の大改正を行うとともに、サービスの改善にも努めた。1933年12月には電車・乗合自動車の連絡制が実施されたほか、1931年から1934年の間に目黒、玉川、甲州、京王、ダットといった民間バス各社並びに目蒲電鉄及び京王電軌と契約を結び、連絡券を発行した。さらに1933年には、創業以来の1人1車制を改め、新車30両に2人1車制、250両に3人2車制の実施を開始した。

スミダ
スミダ

なお、この時期のバス車両は、30人乗り前後のフォード、シボレーなど中型が中心で、スタイルもかなり流線型に近づいていたが、国産車の使用も奨励されるようになった。電気局でも、石川島の「スミダ」、東京瓦斯電気工業の「ちよだ」、商工省標準形式自動車の「いすゞ」などを購入している。

こうした各種の努力に日本の経済状況が上向いてきたことも相まって、1934年以降乗合自動車事業は黒字に転じた。1929年度の11万9,000人をピークに減少していた1日平均乗客数は、1937年度には29万9,000人へと増加した。一方、1924年度から1938年度にかけて増加した営業キロ、車両数、停留所数は、それぞれ121km、730両、371か所に達した。

スミダ
スミダ
ちよだ
ちよだ
いすゞ
いすゞ

戦時下の乗合自動車事業

その後、国を挙げた戦時体制が強化され、物的資源、人的資源の全てが戦争目的遂行のために総動員された。交通機関も「輸送力も武器」という考えのもとに軍需優先主義下におかれた。こうした中、市営交通事業も大きな制約の中で運営することとなった。戦局の拡大とともに電気局の諸資源もひっ迫し、車両等の施設・設備は、新設はもとより、改良、修繕も困難となった。徴用や動員によって労働力は軍需産業へと流出し、新要員の確保も難しくなった。また、戦争状態に突入してからというもの、輸入の減少と軍需優先のためにガソリン消費規制が行われるようになり、バス・円タクといった自動車交通が後退した。
電気局はこれに伴って1937年にガソリン車のうち400両を木炭車に改造する計画を立て、翌1938年1月1日、木炭バス第1号車(1両)の運転を開始した。それ以降、ガソリン車から代燃車への切替えを進め、1941年度末には保有車両1,981両中1,516両が木炭車となった。燃料の入手だけでなく車両の維持も困難であり、新車の調達はおろか保有車両の補修、改造も満足に行うことができなかった。そうした状況の中で、戦時体制に対応するとともに輸送力を維持していくことが大きな課題であった。特に朝夕の通勤時における混雑は激しく、1941年4月に始発から9時まで、同年8月には16時から19時までの急行運転を開始して対応し、無停車停留所を147か所まで増やしてスピード化も図った。1942年の1日平均乗客数は56万9,000人と戦前のピークを記録し、電気局はラッシュの時間帯の乗車を遠慮してほしいと利用者に要請したほどであった。
しかし、バスが満員であった一方、資材燃料の不足や補給難、物価高騰の進行などによる経費の膨張といったことが打撃となり、市営バスは再び赤字財政に陥ることになった。
第二次世界大戦に参戦し完全な戦時統制下に入ると、乗合自動車事業は更に戦時需要に対応した体制をとった。1943年2月から交通が不便なところにある軍需工場へ工員を輸送する工員バスの運転を開始した。また同年、政府の要請によってバス200両を貨物車(トラック)に改造するとともに、同年5月にはトラック専用車庫を造って貨物輸送を開始した。
この結果、車両数は1943年度末に1,616両、1944年度末に1,358両へと減少することとなる。1943年には電車との並行区間を休止したほか、9月に急行運転を廃止するのに伴い停留所距離調整を行って110停留所を廃止した。

木炭バス
木炭バス

翌1944年4月には117か所が追加廃止され、停留所数は1942年度末の728か所から、1943年度末には473か所、1944年度末には路線の縮小もあって121か所に減少した。

木炭バス
木炭バス

戦時下の要請に対応しつつ様々な施策によって輸送力の維持に努めたものの、ガソリン規制や諸設備の荒廃により、結局、乗合自動車事業の輸送能力は著しく低下することとなった。
戦時体制が強化されていく中で、東京府と東京市による二重行政を解消し、首都行政の一元化を図るため、1943年7月1日、東京府及び東京市が廃止されて東京都制が敷かれ、旧東京府の全管轄区域を所管する東京都が誕生した。これによって、東京市電気局は東京都交通局と名称を改める。

1946-19652章 戦後の復興とバス事業の拡充

戦後復興とバス事業の復旧

浜松町営業所の様子
浜松町営業所の様子

終戦時にあった車両960両のうち、可動車はわずか196両であったため、事業として成り立たない状態になってしまった。さらに自動車営業所5か所、芝浦車庫も被害に遭っていた。しかし、この壊滅的な状態から復旧への道のりを歩んでいくこととなる。

浜松町営業所の様子
浜松町営業所の様子

最も大きな障害は、激しいインフレであった。終戦により社会秩序は大きく変容し、物資不足の上、終戦処理費や経済復興のために日銀券が増発されたことによって、物価は高騰した。
交通局は戦後直ちに復興5か年計画を策定し、復旧作業を開始した。ここでは、軌道事業よりも復興の見通しが早いバス事業に重点を置いて、車両の増加、路線網の拡充が図られた。復旧1年目の1945年度は極度の資材・資金不足から復旧作業がほとんど進まなかった。しかし、1946年度以降、車両の整備増強を中心に実施していき、全力を注いだ結果、交通局の営業路線は1948年度の段階で、都電が211kmと戦災前程度、都営バスが343kmと戦災前以上の水準まで回復していった。
復旧策として、1946年度に自動車170両の新車購入と133両の大修理を行うとともに、4月から浜松町、大島の営業所を廃止する代わりに小滝橋、練馬、新谷町の各営業所を復活させて路線長を増やした。翌1947年度には新車13両を購入したほか、占領軍から車両247両の払下げを受け、同年2月から荻窪線にて22両の運行を開始した。払い下げられた車両、GMC車は当時としては最優秀のもので、強力な駆動力により、エンジンの故障などで動かなくなった車両を連結させて走ることができ、バスの2両連結車「親子バス」の運転が実施された。
またGMC車の払下げと同時にガソリンの配給も受け、これを皮切りに都営バスの燃料は木炭、薪などからガソリンへと本格的に移行していった。軽油の入手が可能になると、1947年度からはディーゼル車が、1949年度には天然ガス車までもが登場した。燃料が自由に購入できるようになり、日本の自動車工業と石油精製工業が興隆したことで、1949年に172両、1950年に77両、1951年に168両の新車を購入し、逐次代燃車を廃止した。車両については、大型化の傾向がみられ、路線網の拡充とともに国産の大型車が続々と登場した。1949年9月に堀之内車庫に配車された日野トレーラーバスは、全長13.790m、定員96名ととりわけ大きく、そのほかの車両もほとんどが50〜60人乗りとなって、輸送能力を大幅に増やした。

親子バス
親子バス
日野トレーラーバス
日野トレーラーバス

相互乗り入れとバス路線の拡充

その一方で、交通局は、郊外においてバスを運行する民営バス会社との相互乗り入れを開始した。
戦後の東京都における交通機関の復興は都心部の復旧・整備から着手されたが、増加が続く他府県や近郊の人口を周辺部から都心部へと直接輸送することは、それ以上に重要な課題でもあった。しかし、国鉄、私鉄の復旧だけでは郊外人口の激増にとても追いつかなかった。そこで運輸省は、地域交通調整の枠を外した郊外と都心を結ぶバス路線の相互乗り入れ、直通運転、長距離運転の設定を交通局に申し入れ、これを受けて交通局は各社と協議の上、相互乗入運転を実施することを決定したのである。

一方、相互乗入運転と並行して、交通局は独自に荻窪─青梅間、新宿西口─八王子間の長距離路線の運転を開始し、従来、民間会社の営業地域であった三多摩地区と都心を結んだ。1951年9月には西多摩郡成木村までの路線延長も行って、地域住民の要望に応えている。
このように相互乗り入れや長距離路線の運行を開始した結果、営業キロ数は1948年度以降、毎年度100km前後の伸長を示して、1951年度には569.362kmと、戦前の最高時(1942年統合時の304.977km)の2倍近くとなった。路線の拡張が順調に進み、相互乗入系統では、野沢竜雲寺─新宿間(東急)、阿佐ヶ谷─渋谷間(京王)、代田橋─江古田間(関東)、大泉学園駅前─新宿間(西武)が開通、1960年以降も、越谷─池袋間(東武)、大森─品川駅東口間(京浜)、青戸公団操車場─東京駅間(京成)、代田橋─高円寺間(京王)などが開通した。
単独路線も引き続き拡充され、池袋─人形町水天宮間、鉄砲洲明石町─東京駅間、日暮里─浅草橋─新橋間などの運転が開始されて、その後も西新井─水道橋間、西新井─東京駅間、大森─品川間などが開通した。このほか、東京タワー行きや晴海埠頭行き、品川埠頭行きの路線なども新設された。
この結果、1953年度から1963年度にかけて、都営バスの営業キロ数は679.9kmから886.3kmへと伸長し、系統数も97系統から118系統へと増加した。停留所数は1,096か所から1,491か所に、在籍車両は1,191両から1,914両に、それぞれ大幅に増加し、1日平均乗客数も、1956年度に戦前最高時の56万9,000人を上回る63万4,000人となった後、1962年度からの3年間は100万人台の大台を記録した。
各方面からの強い要望を受け、一般貸切旅客自動車運送事業を開始することとしたのもこの頃のことである。1953年12月に免許申請し翌1954年2月に認可を受けて、同年4月に観光バス3両で営業を開始した。その後、逐次増車して1961年度には保有車両が21両となった。さらに、明治座、新橋演舞場などの劇場と鉄道駅とを結ぶ劇場バス(1957年4月開始)や、明治神宮、富岡八幡宮、靖国神社等を巡る初詣バス(1951年開始、1969年廃止)なども運行した。1956年10月1日の開都500年祭では、パレード用の花自動車を運行し、市販の記念バッジ所有者に対する一般バスの無料乗車を認めたところ、空前の乗車人員を記録した。
しかし、地下鉄網の整備と私鉄との相互直通運転の開始などによって都営バスの機能が半減し、施設規模等では漸増の傾向を示してはいたものの、乗客数は1960年代に入って頭打ちとなり、1日当たりの運賃収入も、1963年度以降は停滞するようになった。そして、1961年度以降は費用が収入を上回り赤字に陥るのである。

劇場バス
劇場バス
花自動車
花自動車

トロリーバスの建設

戦後の路面交通を充実させる方策として、都電や都営バスを拡充する一方、新しい交通機関の建設が計画された。無軌条電車、すなわちトロリーバスである。
トロリーバスは、屋根上にトロリーポールを持ち、道路上に設置した架線から得る電気エネルギーを動力とするバスである。軌道に比べて建設費が安いこと、また、ガソリンの輸入事情によりバス事業の拡張が難しかった中で、国内で生産できる電力を利用し外国の石油資源に頼らずに済むこと──などがその理由である。
1952年2月に工事が開始され、同年5月20日、上野公園─今井橋間(15.54km)で都営トロリーバスが営業を開始した。1955年6月には池袋駅前─千駄ヶ谷四丁目間を開業し、部分開業を重ねて翌1956年9月に池袋駅前─品川駅前間(17.29km)が全線開業した。その後も、1957年1月には池袋駅前─亀戸駅前間(14.92km)で、1958年8月には池袋駅前─浅草雷門間(13.26km)で運転を開始した。
このように都営トロリーバスは、放射線状に延びる都電の終点相互間を結び、都営バス路線の中間地帯を縫って開いた扇の外郭線のようにして都心を包み、網状輸送を可能とする役割を担うこととなった。
しかし、軌道に比べれば建設費が安価なことや電気を動力とすることなどに利点がある一方、バスと比べると建設費も車両も割高で機動性も劣っているという短所もあった。そこに、モータリゼーションの進展という外的要因も加わり、1957年頃からその役割は次第に低下していった。営業キロは1952年の16kmから1959年には51kmへと延びたが、その後は頭打ちとなった。1日平均乗客数も同期間中、2万2,000人から10万3,000人へと増えたが、その後の増加はわずかで、1961年の10万7,000人を頂点に減少していった。
その後、1967年12月10日の品川─渋谷間(8.4km)に始まって、1968年3月31日に渋谷─池袋─亀戸間(27.4km)及び池袋─浅草雷門間(13.3km)、同年9月29日に今井─上野公園間(15.5km)を廃止し、東京都内からその姿を消すこととなった。

トロリーバス トロリーバス トロリーバス
トロリーバス

1966-19803章 都電の廃止とバス事業の拡大

都電の廃止と代替バス

当時の交通局は財政危機への対応として、都電及び都営バスの赤字路線の整理を進めていたが、一方で、都電に代わる交通機関として代替バスの運行を開始したことにより、バス事業は規模を拡大していった。

最後の運行を飾る都電41系統
最後の運行を飾る都電41系統

最初の代替バスは、1963年12月、都電杉並線(14系統)廃止に伴い青梅街道に沿って沓掛町─新宿駅間で運行したが、乗客が次第に営団丸ノ内線に移ったため、1966年4月には廃止となった。次いで、同年5月の都電41系統(志村橋─巣鴨車庫前間)の撤去後、直ちに志村車庫─巣鴨駅間のバス運行を開始するとともに、かつて同系統の発展を予想して電車車庫用地として確保してあった敷地にバス車両100両、乗務員330人を擁する志村自動車営業所を設置した。

最後の運行を飾る都電41系統
最後の運行を飾る都電41系統
都電の代替バス
都電の代替バス
代替バス路線図
代替バス路線図

朝夕のラッシュ時には1分間隔でバスを増発するなど都電の代替としての役割を果たしたが、都営地下鉄6号線(三田線)の巣鴨─志村間の開業とともに1968年12月に廃止した。1967年12月10日には、路面電車の第1次撤去とトロリーバスの一部廃止に伴い、6系統の代替バスの運行を開始した。路面電車とトロリーバスの廃止系統40本に対し、既に並行してバス路線を運行していた三田─東洋大学前間、中目黒─築地間、西荒川─須田町間の3本を除く37本の代替バス系統を設定した。これに伴い、車両数も1966年度末の1,733両から1973年度末には2,500両へと増加した。バスの営業時間も、従来の6時30分〜21時30分から、都電と同じ始車5時30分〜6時、終車22時30分〜23時にまで延長するなど、利用者の需要に応え都電の輸送力を十分に代替するよう努めた。
輸送基地としての自動車営業所も拡充・整備していった。志村自動車営業所に加え、1966年11月末には堀之内自動車営業所を杉並電車営業所跡地へ移転するとともに杉並自動車営業所に改称した。
1968年3月のトロリーバス戸山無軌条電車営業所の廃止に伴い渋谷自動車営業所戸山支所を設置し、同年5月には江東区東陽町の洲崎自動車営業所を東雲に移転、東雲分車庫と統合して深川自動車営業所とした。また同年9月には、トロリーバス今井営業所の廃止後、江東自動車営業所今井支所(後に江戸川自動車営業所今井支所)を設置した。路面電車の撤去が終盤を迎えた1971年には、巣鴨電車営業所の車庫跡地に置いた大塚自動車営業所の巣鴨分所を3月に巣鴨自動車営業所に昇格したほか、12月には早稲田自動車営業所(旧早稲田電車営業所跡地)が都営住宅との併存建築として完成・発足した。また、1972年7月には旧南千住電車営業所跡地に千住自動車営業所南千住分車庫を、10月には葛西自動車営業所を設置した。

大塚自動車営業所
大塚自動車営業所
巣鴨自動車営業所
巣鴨自動車営業所

ワンマン化の推進

バス事業では、運転手のほかに車掌の乗務を必要としていたため、人件費が経営コストの中で大きなウエートを占めていた。そこで経営改善を図るために登場したのが、ワンマンカーである。ワンマンカーは、1924年1月に市営乗合自動車としてバス事業を開始した当時にも一時採用していたが、同年末以降、車体を改良して女子車掌が同乗し運賃収受・安全確認・案内などを行うようになってからは、車掌も同乗するのが一般的となっていた。
バスのワンマン化は人員削減策の一つでもあったが、路面電車の撤去によって運転車両数が増大していた中で、車掌不足による輸送力の減少を防ぐという面でも急がれていたのである。1965年2月にワンマンカーの運行を開始し、全系統のワンマン化が完了したのは1978年度であった。

多摩地区を走るワンマン化した都営バス
多摩地区を走るワンマン化した都営バス

ワンマン化の進展に合わせて車両の改良も進み、降車合図ブザーの改良、運賃両替方式から釣銭方式への変更、車内自動放送装置の採用、低床式車両の導入などによって、事故防止、スムーズな乗降、サービスの向上等が図られた。
なお、多摩地区の都営バスの運賃収受は、1975年4月のワンマン化開始当初は、対キロ区間制運賃区域でも乗車時に行き先を申告して運賃を払う信用方式を採っていたが、1985年8月の全車中型車両化を機に、同地域の民営バスと同様整理券方式に改めた。

多摩地区を走るワンマン化した都営バス
多摩地区を走るワンマン化した都営バス

バス事業の拡大と路線の再編成

都営バスの運行系統は都電の代替バス系統の新設によって増加したが、道路交通の渋滞は都営バスにも大きな影響を与えており、定時性の確保が困難となっていた。
一方、1960年から1970年にかけて都区内の地下鉄の1日平均乗客数が87万人から363万人へと急速に増加していったのに対し、バスと路面電車を合わせた路面交通機関では、417万人から305万人へと大きく減少した。このような状況の中で、バス事業の経営改善には路線の再編成が急務となり、既設路線についても需要の動向に対応して見直しを行った。また、戦後に開始した民営バスとの長距離相互直通乗り入れ系統は、地下鉄などの高速交通機関の整備によって当初の意義が薄れたことから、その廃止・分割を中心に、1967年から1973年までの間に廃止36本、短縮24本を実施した。一方で、新線16本・代替系統36本の計52本の系統を設定して地域需要の変化に応え、利用者の獲得に努めた。
その後も路線の再編成を進め、1980年3月の地下鉄新宿線開業に伴う関係バス路線の廃止を最後に、再編成は終了した。輸送需要が変化したことにより改廃を見送った系統もあり、系統数は137系統から1983年度末までに110系統への減少となった。

サービス向上への取り組み

路線の再編成とともに都営バスの課題となったのが、サービスの向上であった。
1971年11月から、乗降を容易にして安全性を高めるため、低床式・ワイドステップ・広幅扉の車両8両の試験運行を、杉並・新宿両営業所で開始した。同型式のバスは、翌1972年度から本格的に導入し、路線用低床式バスとして定着していった。
これに合わせて座席配列を従来の3方向座席から前向座席に改め、座り心地の改善と車内事故防止を図ったほか、1974年5月からは高齢者や身体の不自由な人のための優先席を路線バス全車両に設けた。その後も、1978年から車椅子固定ベルトを全車に備え付けたほか、1980年からは乗客が行き先を容易に確認できるようにするために、前面・側面の表示窓を大型化するとともに後面表示を起・終点表示から行き先表示に変更した。
また、1970年代になると、生活環境の向上とともに冷房化が急速に進み、路線バス用クーラーも開発された。都営バスにおいても、1979年7月の冷房車8両の試験運行に始まり、1980年3月から本格的に導入を開始した。同時に、冬季の対策として客室2か所に温水式暖房装置も設置した。
1978年3月には、停留所で待つ乗客がバスの行き先を的確に確認できるようにするため、車外には前扉の開きに連動して、自動的に案内放送が流れる装置を採用した。そのほかにもバスの行き先や時刻表を夜間、蛍光灯で明示する照明式標柱、雨や直射日光を防ぎ、離れたところからもバス停留所が識別できる上屋などを設置した。
系統番号も、利用者に分かりやすいよう整理した。従来のバスの系統番号は、事業者がそれぞれ異なる整理番号方式を用いており、中には全く系統番号を用いていない事業者もあるなど統一されていなかったため、利用者が系統番号から行き先等を知ることが困難であった。このため、運輸政策審議会の答申に基づき、交通局は1972年11月から系統番号を次のように分かりやすく整備していった。

番号表示の基本──
漢字記号と2桁の算用数字を用いる。
記 号──
原則として各系統上の主要なターミナル名の1字を採用する。
数 字──
10の位には、都内を9方面に大別した方面別の意味を持たせる。
10 都心から銀座を中心とした晴海方面
20 都心から京葉道路を中心とした江東方面
30 都心から水戸街道を中心とした葛飾方面
40 都心から日光街道を中心とした足立方面
50 都心から中山道を中心とした板橋方面
60 都心から池袋を中心とした練馬方面
70 都心から新宿を中心とした中野方面及び杉並方面
80 都心から渋谷を中心とした世田谷方面
90 都心から京浜国道を中心とした目黒方面及び大田方面
(例)東15 「東」=東京駅ターミナル、「15」=銀座を中心とした晴海方面

低床式バス
低床式バス

低床式バス

貸切バス事業と特定バス事業

観光バス
観光バス

経済成長の中、国内観光は1960年代後半に「観光ブーム」と呼ばれるほどの活況を呈し、貸切バス利用による団体旅行も盛んになり、観光バスの乗客数も1954年度の4万1,000人から1965年度には13万2,000人へと増加し、さらに観光ブームを受けて急増し、1972年度には53万7,000人とピークに達した。
その後も旅客のニーズにあった車両への更新や旅客サービスの向上などを実施するほか、各種イベントや晴海における見本市などへの一般乗合バスを使用した貸切輸送にも積極的に取り組んだ。

観光バス
観光バス

一方、1973年10月、特定自動車運送事業の免許を取得し、養護学校等への通学運行を貸切自動車事業から切り離した。同事業は、1967年度、盲・聾ろう・養護学校を対象に4校・5コースで開始し、1975年度には65コースと事業規模を拡大した。養護学校増設への対応やスクールバス乗車時間の短縮のため、徐々にコース数を増やしていったが、1980年度頃からは交通局担当のコース数は横ばい傾向で推移し、増加分は民営バスが対応するようになっていった。

都営観光のバスガイド
都営観光のバスガイド
スクールバス
スクールバス

1981-20004章 新たな経営計画の実施

経営健全化計画の策定

交通局が財政再建に向けた施策を展開していた一方で、1981年10月、都民の交通需要に的確に対応するための陸上公共交通のあり方について、東京都は知事の諮問機関として交通問題懇談会を設置した。バス事業においては、きめ細かなサービスの実施、バス優先化対策の推進、新しいバスシステム、乗継ぎサービスの検討などが挙げられた。
そうした中、都営交通が将来にわたり公共交通としての役割を果たしていくため、交通局は1984年1月、新たに経営健全化計画を策定した。同計画では、都01系統(渋谷駅前─新橋駅前)をはじめとした都市新バスシステムを新設するなど、路線の再編整備を逐次実施した。1988年12月には都市活動の24時間化に伴う深夜需要に対応するため、深夜01系統(渋谷駅前─新橋駅前間)など4系統の深夜バス「ミッドナイト25」の運行を開始し、その後さらに6系統を増設、深夜中距離バス・深夜急行バスを合わせて計12系統の深夜バスを運行した。
また、全車両の冷房化を1990年度に完了し、その他の車両・停留所の改善、鉄道駅における案内表示や外国語表示などの路線案内の充実も順次実施した。そのほかにバス共通回数券制度、低床式バスの導入を実施した。

都市新バス都01系統(グリーンシャトル)
都市新バス都01系統(グリーンシャトル)
都市新バス都02系統(グリーンライナー)
都市新バス都02系統(グリーンライナー)
ミッドナイト25
ミッドナイト25

ミッドナイト25

都市新バスの拡充と新たなバスサービスの導入

1983年に運輸省が創設した都市新バスシステム整備費補助制度を活用し、都市新バスシステムの導入に積極的に取り組んでいった。都市新バスシステムとは、バス利用の促進、省エネルギー・低公害の効率的輸送形態の確立を目的に、情報サービス機能だけではなく、①バスロケーションシステムの導入、②バスの運行管理システムの導入、③空調や乗降、居住性など乗り心地のよい都市型車両の導入、④停留所の上屋やシェルターなどの整備、⑤バスの走行環境の改善を図るためのバス専用レーンなどの導入を行う総合的な都市型バスシステムであった。
都市新バスのルート選定に当たっては、地下鉄建設や新交通システム導入などの予定がなく、①道路条件、②将来の発展性、③ルートの知名度、④路線の単独性、⑤関連系統への影響度、などの基準を満たすものとし、1984年3月、都市新バス第1号として都01系統(渋谷駅前─新橋駅前)の運行を開始した。名称は、約4,000件の応募の中から「グリーンシャトル」とし、シンボルマークには天に羽ばたくペガサスをデザインした。
都01系統は、橋89系統を一部経路変更して都市新バスとして再生させたものであったが、1983年度に1万5,600人であった1日当たりの乗客数は、1984年度には2万3,000人、1989(平成元)年度には3万1,900人に増加した。この好調を受けてその後も系統数を増やし、1994年1月に都08系統「グリーンリバー」(錦糸町駅前─日暮里駅前)を新設したことにより全8系統となった。
【都市新バス】
・都01系統「グリーンシャトル」(渋谷駅前―新橋駅前)
・都02系統「グリーンライナー」(大塚駅前―錦糸町駅前)
・都03系統「グリーンアローズ」(新宿駅西口―晴海埠頭)
・都04系統「グリーンアローズ」(東京駅南口―豊海水産埠頭)
・都05系統「グリーンアローズ」(東京駅南口―晴海埠頭)
・都06系統「グリーンエコー」(渋谷駅前−新橋駅前)
・都07系統「グリーンスター」(錦糸町駅前−門前仲町)
・都08系統「グリーンリバー」(日暮里駅前−錦糸町駅前)
また、この間、1988年12月から深夜バス「ミッドナイト25」の運行を開始した。郊外部において既に民営バスにより運行されていた深夜バスは、いずれもターミナル駅から団地などへの片道輸送であったが、ミッドナイト25は、団地型に加え、都心の繁華街・ビジネス街とターミナル駅間を両方向輸送としたことが特徴であった。ルートは、調査に基づき、将来にわたって乗客需要の見込まれる新橋駅前─渋谷駅前間を含めた4路線とした。この深夜バスは好評を博し、各方面から運行拡大の要請もあったため、1989年4月に4路線、同年12月に2路線の運行を開始した。都心部から郊外の主要駅までの間も、1990年6月から銀座─荻窪駅北口─三鷹駅北口間で深夜中距離バス、同年12月から上野駅前─越谷駅前─春日部駅西口間で深夜急行バスの運行を開始した。これらはそれぞれ、関東バス、東武鉄道バスと共同で1日1便ずつ運行した。
このほかの輸送サービスの拡充策としては、1988年6月の営団有楽町線の延伸により東京駅から行っていた晴海見本市会場や有明テニスの森コロシアムへの観客輸送を豊洲駅から行うこととし、会場までのバスの所要時間の短縮・輸送効率化を実現した。また、晴海での中規模の催し物に対する東京駅からの入場者の輸送も、同時期に新設された都市新バス都05系統で対応できるようになった。

都市新バスに掲出されたヘッドマーク(都05系統)
都市新バスに掲出されたヘッドマーク(都05系統)
深夜急行バス
深夜急行バス
接近表示装置
接近表示装置

接近表示装置

路線再編整備と輸送サービスの見直し

1990年代には、営団地下鉄南北線の駒込─赤羽岩淵間を皮切りに地下鉄の部分開業が相次ぎ、2000年12月の大江戸線全線開業以降はバス乗客の鉄道への移乗傾向がより一層強まっていった。また、週休二日制の浸透や景気の後退も影響し、2000年度の都バスの1日平均乗車人員は約71万人と1991年度の約92万人から20%以上落ち込んだのである。路線再編成はこうした中で行われ、1991年度から1999年度にかけて12系統(延長・経路変更含む)を新設、2系統を廃止(うち1系統は短縮の上名称変更して新設)した。
都市新バス路線でも、乗客数が減少傾向にあった都03系統「グリーンアローズ」(新宿駅西口─晴海埠頭間)の運行区間を四谷駅─晴海埠頭間に短縮した。

アクセスライン
アクセスライン

一方、乗客のニーズの多様化に対応し乗客需要を喚起する目的で、新たなバスサービスを開始した。まず、1999年3月、通勤・通学者の利便性及び地下鉄・都営バスのネットワークの向上を図るため、住宅地域と鉄道駅を短時間で結ぶ路線「アクセスライン」の運行を開始した。最初の系統は中型バスを利用したAL01で、都営バス初となる100円運賃を設定した上、東大島駅前からの狭い地域の循環運行によって、徒歩・自転車からバス利用への転換を促し新規需要の掘り起こしを図った。

アクセスライン
アクセスライン

また、1998年3月から運行していた快速バス(東京駅八重洲口─ホテル日航東京間)については、2000年4月からは経路を東京駅丸の内南口から銀座を通り台場地区を循環するよう変更し、急増していた臨海部の観光需要に対応することとした。2000年12月には、主要停留所のみに停車する急行系統「ラピッドバス」を5系統(急行01〜05)、土曜・休日の繁華街への買物需要に応える「フレキシブルバス」を1系統(FL01)、大規模住宅団地とターミナル駅とを直接結ぶ「ダイレクトバス」を1系統(直行01)、それぞれ新設した。1991年4月には、都庁の新宿新庁舎移転に伴い、新宿駅から都庁第一本庁舎、同第二本庁舎、都議会議事堂を経由して新宿駅西口へと戻るシャトルバスC・H01系統の運行を開始した。
他方で、乗客数の減少や採算性などの面から、それまで実施してきたサービスの見直しも行った。乗客の減少により、深夜バス「ミッドナイト25」は、1995年に深夜08系統(錦糸町駅前─旧葛西橋間)と深夜09系統(池袋駅東口─新宿駅西口間)を廃止、深夜急行バスは1994年から東武鉄道バスが、深夜中距離バスは2000年12月から関東バスが、それぞれ単独運行を行うこととなった。
台東区及び江戸川区の要請により、上野・浅草地区や江戸川区内の観光の振興などを目的に、1981年4月から運行を開始した二階バスは、観光ルートの一部として親しまれつつも、乗客数の落ち込みによって二階01系統(上野広小路―浅草雷門間)を2001年3月に、二階02系統(小岩駅―葛西臨海公園駅前間)を2000年9月に廃止した。また、1992年3月から中央区より受託して銀座地区の周遊バス「銀ブラバス」(運賃200円)の運行を行っていたが、既存系統と競合する区間もあって乗客数が伸び悩んだため2000年3月に廃止した。

フレキシブルバス(FL01)
フレキシブルバス(FL01)
ダイレクトバス(直行01)
ダイレクトバス(直行01)
二階バス
二階バス
銀ブラバス
銀ブラバス

サービスと施設・設備の改善

1992年2月の運賃改定時には、通勤定期券を無記名の持参人式としたほか、中学生用通学定期券を新設した。1993年11月からは磁気カード型の回数乗車券「Tカード(都バス・都電用)」、1994年10月からは民間バス事業者との共通カード「バス共通カード」の発売を開始した。
1998年4月には、前年の夏休み期間限定で発売した「都バス一日乗車券」を通年化した。
また、2000年12月には、大江戸線全線開業に伴うバス路線再編整備に合わせて「都営バス専用乗継割引カード」を発売した。これは、都営バスに乗り継ぐ際に100円(小児50円)が割引となるカードである。
1998年10月には全国で初めての試みとして、巣鴨営業所所管バス車内に車載型定期乗車券発売機を導入し、定額定期券の車内発売を開始した。定額定期券の車内発売は、その他の営業所においても1999年2月末日までに順次実施した。
車両の改善としては、1990年度に全車両の低床式車両・冷(暖)房化が完了した。また、自動料金収納機について1986年度から千円札対応型の「両替方式」、1990年度からは千円札での支払いに釣銭が自動で出る「釣銭方式」の導入を開始して同年度末には全車両への設置を完了した。1990年度には、次の停留所名や現在時刻を表示する電光式の次停留所名表示装置の全車両取付けを完了した。
停留所についても、分かりやすさ・快適性の向上のため照明付きバス停留所や接近表示装置付き標識柱の設置、バス路線図などの整備を進めるとともに、上屋やベンチなどの整備も引き続き進めた。主要駅前のバスターミナルにおける案内板についても、白地図の上への路線図の表示、停留所名横への乗場番号表示など、より分かりやすくなるよう改善を加えた。また、大江戸線開業を機に駅構内や駅前停留所などへの案内表示・案内板の設置を推進するとともに、内容の充実にも努め、地下鉄・バス間や、バス相互の乗換えの利便を図った。
また、バスの路線を分かりやすくPRするため、1988年度に「都バス路線案内」を作成したほか、「都営バス多摩地域イラストガイド」「TOEIBUS ROUTE GUIDE(英字版路線図)」などを発行した。さらに、1993年度から1998年度までの間に定期発行の沿線案内パンフレット「のんびり都バス小さな旅」や一日乗車券案内図「東京散歩道」を、1999年9月には「見やすい・わかりやすい・使いやすい」をコンセプトとしたイラストによる沿線ガイドブックの「TOKYO都バス乗り隊歩き隊」を発行した。

Tカード(都バス・都電用)
Tカード(都バス・都電用)
定額定期券の車内販売車
定額定期券の車内販売車

みんくるの誕生

1999年1月には、都営バス75周年を記念してマスコットキャラクターの募集を行った。応募作品総数2,457点の中から大賞を受賞した作品がキャラクターに決定し、名称は職員から募集して、「都民のくるま・みんなのくるま」を縮めた「みんくる」を採用した。都営バスに欠かせない存在として、座席シートの模様になっているほか、車両前面の行先表示の隣にステッカーを掲出するなど、各所で活躍している。

みんくる
みんくる
みんくる柄の座席シート
みんくる柄の座席シート

走行環境の改善

1985年のバス総合運輸管理システムの構築によって、バスロケーションシステム、都市新バスシステムに加え、バスレールシステム、ターミナル情報案内システムなどが導入された。バスレールシステムは、鉄道からバスへの乗継ぎの円滑化を図る情報システムで、列車の到着状況を受けてバスの発車を調整するほか、改札口前のバス案内盤により乗換客に停留所案内、バス待機状況、終車などの情報を提供する仕組である。
また、新たな方策として、1998年5月、警視庁と交通局は、臨海副都心地区において虹01系統(浜松町駅─国際展示場駅間)及び快速バス(東京駅八重洲口─ホテル日航東京間)にPTPS(Public Transportation Priority Systems:公共車両優先システム)を導入した。その後、東98系統の目黒通り上り線、虹02系統にも導入した。また、都営バス管内において、特に混み合う道路や車道幅員の狭い道路で、歩道に切り込みを入れてバスの停車帯を設けるバスベイを設置するなど、走行環境の改善を図った。

バス専用レーン
バス専用レーン

バス専用レーン

環境への取組

バス事業の環境対策は、大気汚染や地球温暖化の深刻化と社会の高い関心を前に、とりわけ大きな課題となった。電気式ハイブリッドバスについて、1991年に杉並自動車営業所に運輸大臣認定車として1両導入したのを皮切りに、1998年度までに67両を導入したほか、新たに採用された蓄圧式ハイブリッドバスも1993〜1997年度の間に56両を導入した。また、1993年度、燃料消費量を減少させることによって窒素酸化物及び黒煙排出の総量を削減するため、バスの停止・発進に合わせて自動的にエンジンの停止及び始動を行うアイドリング・ストップ・アンド・スタート装置付きバスを試験導入し、2001年度までに792両を導入した。CNG(圧縮天然ガス)バスは1994年度から導入を開始し、1995年にはバス事業者としては初めて、深川自動車営業所内に天然ガス充填所を建設した。その後、車両及び充填所の拡充が進み、2000年度末には、都庁敷地内に公共CNG充填スタンドが建設されたのに合わせて新宿支所に3両のCNGバスを導入した。
一方、ディーゼル車については、交通局は従来から国の規制値以下の基準を設け、車検整備時に黒煙テスターを用いて管理するなど積極的な黒煙対策を行っていたが、東京都が1999年8月に大気汚染対策として「ディーゼル車NO作戦」を開始したことを受け、2000年に「都バスクリーン作戦」を展開した。酸素触媒付きバスや連続再生式DPF(Diesel Particulate Filter:粒子状物質減少装置)付きバスの導入、アイドリングストップの徹底、車両へのステッカー貼付、所内における看板掲示などを行ったほか、全営業所に黒煙テスターを採用し、車両整備体制を強化した。同時に、国内初の低硫黄軽油も導入し、2001年4月から全営業所に取り入れた。

電気式ハイブリッドバス
電気式ハイブリッドバス
CNGバス
CNGバス

福祉への取組

超低床バス
超低床バス

都営バスでは福祉への取組についても強化していた。車両のバリアフリー化を推進し、1988年11月にバスメーカー4社へ超低床バスの開発を要請した。その結果、床面地上高55cm(一般低床バスは85cm)、ステップも1段のみで、なおかつ国内で初めて手動式スロープ板を中扉床下部に格納した車両が開発され、8両を1991年に導入した。

超低床バス
超低床バス

以後も、1992年にはリフト、1994年にはニーリング(車高調整)装置を取り付けたバスを導入した。その後、ステップ段差をできる限り縮小した新低床バス「らくらくステップバス」を1995年3月に試験導入した。1997年には、これにリフトを装着したリフト付き新低床バスが登場した。 1997年3月、国の先駆的事業の一環として、ステップのない「超低床ノンステップバス」2両を試験的に導入した。床面地上高35cm(乗降口付近は30cm)で、停車中はニーリング装置により約23cmまで下げることができ、スロープ板により車椅子利用者にも対応した車両であった。その後も都営バスでは、全国初のCNGノンステップバス、中型系ノンステップバスなどを導入していき、2012年度末には全車ノンステップバス化を完了した。

リフト付超低床バス
リフト付超低床バス
ノンステップバス
ノンステップバス

災害時の援助活動

1986年11月21日の夕刻、伊豆大島三原山が大噴火した。全島に避難命令が出され、1万人余の同島住民が夜半から翌朝にかけて、東京や静岡県伊豆半島方面へ避難しなければならない事態となった。交通局は、災害対策本部より依頼を受けて、東京に着く約7,000人の避難住民移送のためのバスを緊急確保し、同日深夜から竹芝・晴海・日の出の3埠頭に計148両の都営バスを出動させた。翌22日未明から昼近くまで、避難住民を都内8か所の避難施設に移送した。その後も、同年12月24日に全員の帰島が完了するまでの約1か月間に、伊豆半島各地に身を寄せていた住民の移送、都内約40か所の施設に分散避難した島の住民の施設間移送のほか、一時帰島に伴う送迎輸送などを都営バスが担った。
その後も1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災の際にも、救援活動に向かう東京都職員の輸送やバス車両の譲渡などの支援を行った。

伊豆大島全島避難への対応(晴海埠頭)
伊豆大島全島避難への対応(晴海埠頭)

伊豆大島全島避難への対応(晴海埠頭)

2001-20125章 新たな時代を見据えた取組

事業環境と路線の新設改廃

都営バスは、2002年度以降、りんかい線の全線開業に引き続き、東京メトロ半蔵門線の延伸とそれに伴う東武伊勢崎線との相互直通運転、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス、日暮里・舎人ライナー、東京メトロ副都心線の開業など鉄道網が拡充されたこと、乗合バスの参入規制の緩和で事業者間の競争が激化したことなどによって、ますます厳しい状況に置かれていた。また、2006年には道路運送法が一部改正され、都営バスの運行地域においてコミュニティバスを運行する事業者などが参入し、都営バスとの競合が起きるようになり、都営バスの1日の平均乗客数は、1972年度の130万人を頂点に、年々減少してきた。
このような中、商業施設の開業に合わせた新線の運行開始など、利用者の動向に合わせた路線再編や運行回数の見直しを行っていった。
また、1988年に運行を始めた深夜バスは、景気後退などによる乗客数の減少から1995年に深夜08系統と深夜09系統を廃止した。その後、2002年10月に深夜06系統、2003年3月に深夜05系統、2008年3月に日暮里・舎人ライナーと並行していた深夜04系統を廃止した。しかし一方で、沿線の再開発に伴う人口の増加により需要が見込まれたことから、2008年3月に深夜11系統(王子駅前─新田二丁目間)を新設し、計6系統となった。

新たなバスサービスの展開

バス事業を取り巻く環境が年々厳しくなる中、新たなバスサービスとして「アクセスライン」、「フレキシブルバス」、「ダイレクトバス」、「ラピッドバス」などを導入してきた。「アクセスライン」については2000年12月、第2弾としてAL02系統(豊洲駅前─豊洲一丁目間:循環)の運行を開始した。その後、2004年4月、鉄道駅に近接する再開発地域の新規需要に応え、運行経路・運行時間帯を延長するとともに、豊洲駅を起点に豊洲一丁目及び東雲地域を循環する路線バスに変更し、豊洲01系統として運行を開始した。2007年3月からは、豊洲地区の開発状況や道路整備に合わせて運行経路の変更を行っている。また、2001年6月には、台東区から運行委託を受けて同区北部地域の循環バス「めぐりん」を新設した。2004年4月には同区南部を循環する路線も加え、「北めぐりん」(北部)と「南めぐりん」(南部)に改称した。このほか、2005年11月からは、江東区から運行委託を受けてコミュニティバス「しおかぜ」を新設した。
これらに加え、2008年4月から東京都の観光振興施策の一環として観光客の誘致を目的に、観光路線バス「S-1」の運行を開始した。東京の主な観光拠点を中心に下町や都心部を路線バスで巡回する魅力あるルートを開拓し、観光地巡りの利便性向上によって国内外からの観光客等の誘致を図ることとした。S-1は、東京駅から日本橋、秋葉原、上野、合羽橋、浅草、両国など、東京下町の主要な観光地を結び、運行に当たっては、外部有識者を交えた「東京の観光路線バスを考える会」を設置し、運行経路や車両デザイン等について検討を行った。既存車両を改造した車両のデザインは、首都大学東京(現在の東京都立大学)との産学連携により同大学の福田哲夫教授が手掛けたオリジナルのもので、観光路線バスと一目で分かるようになっていた。それまでの都営バス路線が、専ら通勤・通学等、都民の身近な足として利用される生活路線であったのに対し、観光路線バスは国内外の観光客の誘致やバスの利用促進を目的に設定した。また、下町における新たな観光地となる東京スカイツリーが開業することから、2011年7月20日からは、この周辺を経由するとともに、錦糸町駅発着を追加した新たなルートへと経路変更し、2012年3月20日からは、全て錦糸町駅発着として運行した。
2007年3月には、ICカード乗車券「PASMO」のサービスが開始され、首都圏の鉄道やバスが1枚のICカードで利用可能となった。都営バスにおいても全路線でPASMOの一斉導入を行い、チャージ(入金)されたICカードを料金機にタッチするだけで運賃の支払ができるようになった。「バス利用特典サービス(バス特)」、「都バスIC一日乗車券」、「バス・バス乗継割引」など、ICカードの特徴を生かしたサービスも提供していた。

観光路線バス「S-1」
観光路線バス「S-1」

観光路線バス「S-1」

お客様案内の充実

バスにおける行き先表示に巻取り式の方向幕を採用していたが、テトロンフィルムを用いた方向幕では路線改編を行う際の方向幕の付け替え、継ぎ足しの作業が膨大であることから、2001年度購入の一部の車両にLED方向幕を試行導入した。また、2003年には、六本木ヒルズ専用車として森ビルが購入した車両3両に、LED行き先表示器を搭載し、2004年からLED行き先表示器の本格導入が始まった。

巻き取り式方向幕
巻き取り式方向幕
LED式方向幕
LED式方向幕

都営バスでは以前よりバスの接近表示装置を設置するなど、お客様案内の充実に努めてきたが、より多くのお客様の利便性向上を図る目的で、2003年度から簡易型バス接近表示装置を導入した。同装置は、数字1桁の表示によってバス車両の停留所に対する接近状況を表示するものである。バス車両が3停留所前に接近した際に「3」を表示し、車両の接近に従って「2」「1」を表示し、車両が直前の停留所を出ると「0」を点滅表示して、バスが間もなく到着することを知らせる。
そのほかに駅改札口付近には近辺を運行するバス路線の案内板を、停留所にはバス路線や地下鉄駅の出入口位置を示す「みんくる案内板」や行き先案内板を設置し、案内の充実を図った。また、停留所施設としては、快適にバス停を利用していただくために上屋やベンチの設置を進めてきた。

バス接近表示装置
バス接近表示装置
簡易型バス接近表示装置
簡易型バス接近表示装置
広告付き上屋
広告付き上屋
都バス運行情報サービス
都バス運行情報サービス

車両や停留所での案内の充実を図る一方で、携帯電話等の個人用情報通信サービスが充実してきたことを受けて、2003年1月、携帯電話やパソコンなどから時刻表をはじめ、バス到着までの予測時間や目的地となる停留所までの所要時間を閲覧することができる「都バス運行情報」(http://tobus.jp)の配信を開始した。これは、バス運行管理システムが収集するリアルタイム運行情報データを利用したものである。その後、都営バスの経路を検索できる機能や、外部のリンクサービスを用いて停留所周辺の地図を表示する機能を追加している。

都バス運行情報サービス
都バス運行情報サービス

安全対策の強化

お客様に安心して都営バスをご利用いただくために、安全対策の強化にも取り組んでいる。
乗務員の安全教育・安全意識の向上を図るためドライブレコーダーの導入を進め、2007年度及び2008年度に、全車両の約1割に当たる計138両に先行導入した。この結果、事故防止等に一定の効果が得られたことから、このほかの全車両にも導入することを決定し、観光バス車両も含め全車両に設置を完了した。ドライブレコーダーでは、事故が発生した場合には発生時刻や速度などの走行データとともに、その映像を確認し、事故原因の究明に役立ている。また、運行管理者が事故を起こした乗務員に事故映像を見せ、自らの運転特性を把握させてそれに応じた必要な指導を行うことで、安全意識や技術の向上を図っている。また、実際の事故のほか事故には至らない、いわゆるヒヤリ・ハット映像を編集加工した教材を作成し、全乗務員を対象に実施する安全研修等に使用している。
また、2008年度から車両移動時における車両後方の視認性向上のため、観光路線バス5両、同年度購入の一般路線バス50両にバックアイカメラを導入した。その後は新車購入時よりバックアイカメラを搭載した車両となっている。
さらなる事故の削減と未然防止のため、乗務員への教育及び訓練の充実にも取り組んでいる。2009年3月、本格的なバス運転訓練車を導入した。この訓練車は、ドライバーの視線を追跡及び記録するアイマークレコーダー、車内の揺れを計測する加速度センサー、前方や左側方との距離計測器、お客様の車内移動を確認する安全確認装置、前後扉の開閉センサー等を装備している。個々のドライバーが実際に道路を走っている際の運転状況をリアルタイムで計測し、営業所に戻ってからその場で記録を再生することで、運転中の癖や注意すべき点などを客観的かつ具体的なデータに基づき教育及び訓練することができるものである。

運転訓練車
運転訓練車

運転訓練車

環境への取組の推進

環境への取組については電気式ハイブリッドバスや蓄圧式ハイブリッドバス、CNGバスの導入など、積極的に進めていたが、更なる取組として国土交通省が実施している“次世代低公害車開発・実用化促進プロジェクト”(EFV21)事業に協力し、2009年4月、同プロジェクトで開発されてきた非接触給電ハイブリッドバスの実証運行を実施した。同バスは、ハイブリッドバスにコイルにより外部から非接触で急速充電できる機能を追加したもので、電気モーターによる走行が可能なためCO2削減に寄与する。実証運行は、都05系統(晴海埠頭─東京駅丸の内南口間)において実施した。その後、2010年度、2011年度においても、国土交通省の実証運行プロジェクトに協力している。
一方で、東京都環境局及び民間事業者(トヨタ自動車、日野自動車)との協働により、燃料電池バス・パイロット事業を実施し、都営バスの営業路線において日本で初となる燃料電池バスの営業運転による実証実験を行った。燃料電池バスは、燃料となる水素と酸素とを化学反応させて作った電気によりモーターを駆動させて走行し、走行時には水しか排出しないため、環境に優れたバスである。2003年8月から2004年12月まで、東16系統(東京駅八重洲口─東京ビッグサイト・東京テレポート駅)と、海01系統(門前仲町─東京ビッグサイト・東京テレポート駅)において実証実験を行い、その後、本格的な導入に向けて、都内道路環境における走行性能を確認調査する走行実証実験を行った。そして2017年3月から市販車では日本初となる燃料電池バスの営業運行を開始した。
また、燃料に由来するCO2を削減するため、東京都環境局などと連携し、バイオディーゼル燃料を使用した実証運行などにも取り組んでいる。

非接触給電ハイブリッドバス
非接触給電ハイブリッドバス

非接触給電ハイブリッドバス

実証実験中の燃料電池バス
実証実験中の燃料電池バス
営業運行を開始した燃料電池バス
営業運行を開始した燃料電池バス
バイオディーゼル燃料を使用した運行
バイオディーゼル燃料を使用した運行

2013-20246章 東京2020大会への対応と次の100年に向けて

東京2020大会開催決定

2013年9月、2020オリンピック・パラリンピック競技大会が東京で開催されることが決定し、東京都交通局では大会期間中の輸送対応やテロ対策の強化、外国人受け入れ環境の整備、バリアフリーの充実など、局を挙げて準備を進めていくこととなった。

外国人受け入れ環境の整備

東京2020大会の期間中は、通常ご利用いただいているお客様に加え、観客や運営スタッフなど、国内外から多くの方が東京を訪れることが見込まれ、誰にでもわかりやすい情報案内の整備が必要であった。そこでバス停留所の標識柱や上屋・ターミナル案内板の案内サインをより分かりやすいものへと見直すとともに、バス車内のLED次停留所名表示装置を液晶式に更新して表示を見やすくし、情報案内を充実させた。また、都営バスの全車両の車内で無料Wi-Fiサービスを提供し、外国人観光客の利便性向上を図った。
「都バス路線案内『みんくるガイド』」についても、日本語版と英語版に加え、簡体字版、繁体字版、韓国語版を作成した。

新たなバスモデルの展開

LEDカラー行先表示器
LEDカラー行先表示器

わかりやすいバスを目指し、漢字がわからない外国の方でも、乗りたいバスがわかるよう、系統名をアルファベットと数字でも表示した系統ナンバリングやLEDカラー行先表示器の導入、バス案内デジタルサイネージを活用した多様な情報提供など、誰もが円滑に利用できる新たなバスモデルを提示した。
また、車内のさらなるバリアフリーを追求するため日本で初めてフルフラットバスを導入した。ノンステップバスには、車内後方の通路に段差があることにより、車内前方が特に混雑しやすく、乗り降りに時間がかかるため、運行の遅れにもつながることがあった。この段差を解消したフルフラットバスを2018年12月に営業運行を開始した。

LEDカラー行先表示器
LEDカラー行先表示器
バス案内デジタルサイネージ
バス案内デジタルサイネージ

バス案内デジタルサイネージ

フルフラットバス
フルフラットバス

フルフラットバス

路線拡充と有明自動車営業所の開設

有明自動車営業所
有明自動車営業所

東京2020大会後の選手村のまちづくりなど、都心部や臨海地域等を中心に、今後の開発の進展に伴い増加が見込まれる輸送需要に的確に対応し、混雑緩和や定時性の確保、利便性の向上を図るため、都05-2系統など、バス路線の拡充によるダイヤの見直し等を実施した。また、東京2020大会時への活用や今後の輸送需要の増加を見据え、2020年3月30日には有明自動車営業所を新たに開設した。

有明自動車営業所
有明自動車営業所

大会輸送への対応

2015年に公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会、及び東京都オリンピック・パラリンピック準備局から、ボート、カヌー、馬術総合の競技会場である海の森競技場への観客輸送について検討依頼を受け、検討を開始した。
この輸送にあたっては、都営バス既存路線の運行に影響を与えることなく、可能な範囲で乗務員及び車両を確保することが最大の課題となった。そこで、現実的に対応できる輸送計画を提案することが必要と考え、ルートの精査、運行に必要な乗降場の条件整理、運賃精算方法などの解決すべき課題を洗い出し、輸送条件(発着駅、観客数、運行ルート等)、臨時車庫用地、車両・乗務員の確保などの諸課題について検討を進めていった。そして、観客シャトルにおける観客誘導、バス発車業務などを円滑に行うため、世界ジュニアボート選手権大会やラグビーワールドカップ2019など、各地で開催された大規模イベントの観客シャトル輸送の調査を行い、様々な課題の把握と解決策を検証し、大会本番時の運行計画を決めていった。

大会延期とその後の対応

リフト付き観光バス
リフト付き観光バス

しかし、新型コロナウイルス感染症の世界的な感染拡大に伴い、東京2020大会は2020年3月24日に1年の延期が決定された。都営バスでは開催延期に伴う課題を早急に整理し、対応策の検討を行っていった。その後、2021年7月に無観客開催が決定し、海の森シャトルバスの運行などは取り止めとなってしまったが、メディア輸送や選手・関係者輸送では、全ての車両について、車内の座席等に抗ウイルスコーティングを行うなど、感染対策が施され、運行が実施されることとなった。
東京2020大会の輸送運営計画では、世界各国へ情報の発信を迅速に行う必要があるため、メディアへの輸送サービスとして専用バスで移動できる輸送システム(TM)を提供するとされており、都営バスは、路線バス車両により国際放送センター(IBC)とメインプレスセンター(MPC)間を移動するTMを24時間運行したほか、IBC/MPCと選手村間を移動するTMを運行した。運行開始後、当初見込みを上回る需要があったことから24時間ルートの増便や、新たにメディア関係者が宿泊する都内ホテルとメディア輸送モール(MTM)を結ぶシャトルの対応なども行った。また、選手村における選手輸送バスの運行管理業務に職員を派遣し、選手輸送への協力も行うこととなった。
パラリンピック時の輸送サービスでは、車いすを使用する選手の輸送には、車いすに乗ったまま乗車することができるリフト付き観光バスや路線バスを使用するとされており、車いすに乗ったまま乗降が可能なリフトを装備したリフト付き観光バスを導入して対応するなど、選手村と各競技会場間との移動に係る選手輸送に貢献した。

リフト付き観光バス
リフト付き観光バス
メディア輸送や選手・関係者輸送にあたる都営バス メディア輸送や選手・関係者輸送にあたる都営バス メディア輸送や選手・関係者輸送にあたる都営バス
メディア輸送や選手・関係者輸送にあたる都営バス メディア輸送や選手・関係者輸送にあたる都営バス メディア輸送や選手・関係者輸送にあたる都営バス
メディア輸送や選手・関係者輸送にあたる都営バス

新型コロナウイルス感染症への対応

2019年12月以降、世界的な大流行の兆候を見せ始めた新型コロナウイルス感染症は、2020年1月に国内で初の感染者が確認され、徐々に国内の感染者数が増加し始めた。東京都においても感染者数の増加が続き、緊急事態宣言が発出されることとなった。
都営バスでは、「バスにおける新型コロナウイルス感染予防対策ガイドライン」に準拠しつつ、車両への抗ウイルスコーティングの実施や運転席へのビニールカーテンの設置等の感染症対策を実施し、運行の維持に努めた。
そうした中、ダイヤモンドプリンセス号の乗客輸送やワクチン接種を進めるための自衛隊大規模接種会場への運行など、国や都からの要請へも対応していった。

都営交通のコロナ対策(車両への抗ウイルスコーティングなど)
都営交通のコロナ対策
(車両への抗ウイルスコーティングなど)
自衛隊大規模接種会場への運行
自衛隊大規模接種会場への運行

次の100年に向けて

都営交通は、東京の都市活動や都民生活に欠かせない公共交通機関として重要な役割を担ってきた。なかでも都営バスは、身近な地域の交通機関として運行を行ってきた。
しかしながら、新型コロナウイルス感染症の影響により利用者数は減少し、今後もテレワーク等の行動変容に伴い、コロナ禍以前の水準への回復ができない、厳しい経営状況が続くものと見込まれる。加えて、少子高齢化の進行・労働力人口減少への対応や、気象災害の頻発・激甚化への対策の強化など、取り巻く事業環境は大きく変化している。
このような中でも、中長期的に安定した輸送サービスを提供し続けていくことが、我々の果たすべき責任と役割と認識し、安全・安心の確保を最優先に、質の高いサービスを提供するとともに、まちづくりとの連携や、環境負荷の低減等を通じ、東京の発展に貢献していく。

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