明治6(1873)年に日本で初めての公園として芝、飛鳥山などと共に開園した上野恩賜公園。江戸時代には寛永寺の境内でしたが、幕末の上野戦争で荒廃。その後、病院の建設予定地となっていたところを、医学講師として来日していたオランダ軍医ボードワン博士がすぐれた自然が失われるのを惜しみ政府へ提言し、公園が誕生。当初は寛永寺社殿、東照宮と境内の桜を中心とした公園でしたが、博物館や動物園、美術館などが次々に建てられ、文化と芸術に彩られた公園になりました。
上野恩賜公園には、サクラ、イチョウ、クスノキなどの数多くの樹木、蓮で有名な不忍池、前方後円墳の擂鉢山など、数々の名所がありますが、知られざる碑や塚、像なども多く点在。普通に歩いているだけでは発見しにくい石碑や像が、木々の間にひっそりと佇んでいます。のんびりと散策しながら、歴史や由来をたずね歩いてみましょう。
江戸初期の天台宗の高僧、天海僧正が寛永8(1631)年に建立したお堂。150年ぶりに広重の江戸百景「上野清水堂不忍池」に描かれた“月の松”が復活しました。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と芭蕉が詠んだ鐘。当初は江戸城内で撞かれていましたが、元禄以降に上野でも撞かれるようになりました。現在の鐘は天明7(1787)年に鋳直されたもので、今も朝夕6時と正午に鐘が響いています。
明治時代を代表する文学者・正岡子規は大の野球好き。上野公園では仲間達と草野球を楽しんでいました。子規は、幼名の「升(のぼる)」にちなんで、雅号に「野球(のぼーる)」を用い、また、外来語の“バッター”、“ランナー”を“打者”、“走者”と日本語訳したことでも知られています。球場の傍らには、「春風や まりを投げたき 草の原」の句碑があるように、野球に関係した句や歌を詠み、文学を通じて野球の普及に貢献しました。上野恩賜公園開園式典130周年を機に、愛称だった正岡子規記念球場と正式に命名されました。
シロナガスクジラは現在地球に生息している最大の生物。海面から潜ろうとしている全長30mのシロナガスクジラ像は、2013年夏の修復で眼球を塗装から義眼に変更し、胴体の斑紋や「感覚毛(洞毛)」と呼ばれる体毛などが再現されました。
上野公園の正面玄関、袴腰広場にある噴水。蛙なのになぜかおへそがあり、小さな池にひたすら水を注いでいます。夜はイルミネーションも灯ります。
蛙の噴水の近くに、美空ひばり、黒澤明など国民的有名人の手形が並んでいます。漫画家の長谷川町子だけは、手形ではなくサザエさんのイラストです。
もとは越後村上藩主・堀直寄が戦死者慰霊のため、寛永8(1631)年に建立した大仏です。建立当時は像高6mあり、地震や火災の被害を何度も受け、その都度再建されました。関東大震災によって倒壊した後、第二次世界大戦時の金属供出令により胴体を供出。面部のみが寛永寺に遺りました。
本館は戦後の日仏間の国交回復の象徴として、フランス人建築家ル・コルビュジエの設計により、昭和34(1959)年に竣工。国の重要文化財に指定されています。前庭にはロダンの彫刻6体が展示されています。
慶応4(1868)年、旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れた後、幕府の復興などを願って結成された部隊が彰義隊です。新政府軍との上野戦争によって壊滅し、10年以上後の明治14(1881)年に墓石が造られました。明治政府の賊軍だったため、墓石に「彰義隊」の文字はなく、「戦死之墓」とだけ刻まれています。
世界的な細菌学の博士である野口英世の銅像は、昭和26(1951)年に国立科学博物館の前に造立されました。野口英世の全身立像は珍しく、実験中の試験管をかざした姿を表現。台座にはラテン語で「人類の幸福のために」と刻まれています。
公園の西南に位地する周囲約2㎞の池。もとは東京湾の入江の一部が周囲を埋め立てられて残った池で、寛永2(1625)年に寛永寺が建立された際に、池を琵琶湖に見立て竹生島になぞらえた小島を築造して辯才天が祀られました。江戸時代から蓮の名所です。明治17(1884)年に競馬場の建設に伴い、ほぼ現在の形に。明治25(1892)年までは、池を周回する形で春と秋に上野不忍池競馬が開催され、明治天皇をはじめ華族や政財界人など多くの観衆を集めていました。現在は蓮池、ボート池、鵜の池(動物園内)からなっています。
上野公園の北西にあり、約400種3000点の動物を飼育しています。解説員によるガイドツアーがあり、動物たちの生態を詳しく知ることができます。秋には芸大生による作品展「ビバ!芸大生がやってきた!」が開催されます。
上野動物園の東園と西園を結ぶ、日本で最初に開業したモノレールです。動物園の中にありますが、地下鉄や都電と同じ、公共交通機関として東京都交通局が運行しています。