1911年8月1日、東京市は東京市電気局条例を公布し、東京市電気局が開局した。市内軌道事業、電気供給事業の経営を実施し、東京都交通局の前身である。
関東大震災と市営バスの誕生
電気局が開局すると同時に、路面電車と併せて市営での運行を計画していた交通機関が、乗合自動車(バス)であった。自動車は高価なものであったため一部の資産家などの奢侈品にすぎず、路面電車や人力車のほか、馬車や荷車などが市内の主要な交通機関として大きな役割を担っていた。
東京市は、電気動力による乗合自動車の運転を計画していたが、計画が思うようには進んでいなかった中、1923年9月1日午前11時58分、関東一帯は、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震に見舞われた。東京を中心に埼玉、千葉、神奈川、茨城、栃木、群馬、山梨、長野、静岡など各県で家屋・建物の倒壊や崖崩れなどが起こり、死者及び行方不明者は約10万5,000人、全壊、焼失等の被害を受けた家屋は約37万棟にも及んだ。
交通機関の状況をみると、総じて鉄道の被害は甚大であった。また、電気局が受けた被害も大きく、運転不能となり、市内各所で立往生しているうちに火に包まれて焼失した市電が400両近くに及んだ。さらに、翌2日にかけて新宿、本所、有楽町、三ノ輪、錦糸堀などの車庫や浜松町の工場が火災に遭い、そこでも車両が焼失した。焼損した軌道橋には、汐見橋、中ノ橋、永代橋、吾妻橋、新川橋、業平橋、御茶ノ水橋、厩橋、築地橋、和泉橋、小川橋などがある。
関東大震災発生後、電気局は軌道事業の復旧に全力を注いだが、その一方で、市民の足を確保する応急処置として、市営の乗合自動車の運転を計画した。関東大震災によって東京市街の大半が破壊され、鉄道・軌道事業の復旧には相当の時間を要することが予想された中で、開業が比較的容易な自動車輸送が注目されることとなったのである。
電気局は、直ちに自動車車両1,000両(後に800両に削減)をアメリカのフォード社に注文した。また、1923年10月17日には電車乗務員の中から自動車運転手志望者1,000名を募り、陸軍自動車隊、基督教青年会自動車部、セール・フレーザー商会、日本自動車学校、帝国自動車学校における教習で運転技術を習得させた。
翌1924年1月11日には試運転を終了し、同月18日、巣鴨─東京駅前間、中渋谷─東京駅前間の2系統で、車両44両による運転が開始された。震災から4か月、計画決定から3か月と、短期間での開業を実現し、同年3月16日には20系統148kmの予定路線全てが開業した。市営バス、現在の都営バスの誕生である。
初期の市営バス「円太郎」の活躍
こうして運転を開始したバスの車体はフォード社製の1トン半トラックシャシーを11人乗りとしたもので、アメリカ家畜輸送用格子ボディーを改装して車両に用いた。市内交通の応急処置として実用性を第一としていたために、乗り心地はあまりよくなく、1台の価格も東京市街自動車の「青バス」が1万2,000円であったのに対し、市営バスは布幌付で1,800円余と7分の1であった。トラックを改装した急造の車体がかつての「円太郎馬車」を連想させることから、市営バスは「円太郎」と呼ばれて親しまれた。
なお、「青バス」が当時、女子車掌を乗せたツーマンカーであったのに対し、円太郎は運転手のみのワンマンカーであった。運転開始当初、平日は7時から11時、15時から19時までのラッシュアワーを中心に時間制で運行し、日曜及び祭日は7時から19時まで通しで運転が行われた。巣鴨線、渋谷線の2系統で乗客数は1日平均7,449人と、市電の輸送力低下を補う代替機関としての機能を発揮したのである。
バス事業の存続と拡張
こうして発展していった市営バスは、日本の交通史上初の本格的な都市内交通機関としての乗合自動車であったが、市電の復旧に伴って利用者数が伸びなくなり、収入も漸減傾向にあった。また、警視庁による市営バスの営業許可の期限は、1924年7月末日までであったため、市参事会は、予定どおり市営バスを廃止する方針を議決した。
しかし、同年3月の段階でも1日平均乗客数が5万4,000人だったことからもわかるように、市営バスは既に市民生活の中に定着しつつあった。存続運動が展開されたことに加え、多額の車両購入費を費やしていた状況なども踏まえて、同年7月26日、市会は市営バスの存続を決定した。
電気局は、存続決定と同時に再スタートを切るべくまず、同年8月1日から漸次、運転系統を20系統から9系統に、車両を800両から302両に縮小し、運転時間を7時から22時までに延長した。他方で、車両の改造を行い、同年12月23日から新装車の運転を開始した。女性車掌の配置車両の改造と併せて、1924年12月、従来のワンマン制と主要停留所で乗車券を販売していた出札手を廃止して、女性車掌を乗務させることとした。赤襟で紺サージのワンピース姿であったことから、「赤襟嬢」と呼ばれて親しまれた。
1925年に石川島造船所からイギリスのウーズレー車を、1927年にアメリカのガーフォード・シボレーとフォードを購入した。翌1928年に購入した大型ガーフォード車は定員34名、全長7.14mで、初期の円太郎バスが11人乗りであったことを考えると、本格的に開始されてからわずか3年の間に驚異的な進歩をみせたといえる。
営業所や車両等の整備に伴って営業路線も増加し、1929年度には、系統数21系統、1日平均運転キロ数5万2,000km、営業路線キロ数112km、1日平均乗客数11万9,000人と、1924年3月の2.2倍となった。
市営バスの不振
市営バスは1929年度までに大きく成長したが、世界恐慌による日本経済の不況、競合交通機関の発展により、その後は経営環境が悪化し、利用者も減少することとなった。競合交通機関の中でも、特に青バスをはじめとする民間バスとの競争が激しかった。
電気局では不振からの脱却を図り、1931年6月10日、電車との協調主義をとって運転系統の大改正を行うとともに、サービスの改善にも努めた。1933年12月には電車・乗合自動車の連絡制が実施されたほか、1931年から1934年の間に目黒、玉川、甲州、京王、ダットといった民間バス各社並びに目蒲電鉄及び京王電軌と契約を結び、連絡券を発行した。さらに1933年には、創業以来の1人1車制を改め、新車30両に2人1車制、250両に3人2車制の実施を開始した。
なお、この時期のバス車両は、30人乗り前後のフォード、シボレーなど中型が中心で、スタイルもかなり流線型に近づいていたが、国産車の使用も奨励されるようになった。電気局でも、石川島の「スミダ」、東京瓦斯電気工業の「ちよだ」、商工省標準形式自動車の「いすゞ」などを購入している。
こうした各種の努力に日本の経済状況が上向いてきたことも相まって、1934年以降乗合自動車事業は黒字に転じた。1929年度の11万9,000人をピークに減少していた1日平均乗客数は、1937年度には29万9,000人へと増加した。一方、1924年度から1938年度にかけて増加した営業キロ、車両数、停留所数は、それぞれ121km、730両、371か所に達した。
戦時下の乗合自動車事業
その後、国を挙げた戦時体制が強化され、物的資源、人的資源の全てが戦争目的遂行のために総動員された。交通機関も「輸送力も武器」という考えのもとに軍需優先主義下におかれた。こうした中、市営交通事業も大きな制約の中で運営することとなった。戦局の拡大とともに電気局の諸資源もひっ迫し、車両等の施設・設備は、新設はもとより、改良、修繕も困難となった。徴用や動員によって労働力は軍需産業へと流出し、新要員の確保も難しくなった。また、戦争状態に突入してからというもの、輸入の減少と軍需優先のためにガソリン消費規制が行われるようになり、バス・円タクといった自動車交通が後退した。
電気局はこれに伴って1937年にガソリン車のうち400両を木炭車に改造する計画を立て、翌1938年1月1日、木炭バス第1号車(1両)の運転を開始した。それ以降、ガソリン車から代燃車への切替えを進め、1941年度末には保有車両1,981両中1,516両が木炭車となった。燃料の入手だけでなく車両の維持も困難であり、新車の調達はおろか保有車両の補修、改造も満足に行うことができなかった。そうした状況の中で、戦時体制に対応するとともに輸送力を維持していくことが大きな課題であった。特に朝夕の通勤時における混雑は激しく、1941年4月に始発から9時まで、同年8月には16時から19時までの急行運転を開始して対応し、無停車停留所を147か所まで増やしてスピード化も図った。1942年の1日平均乗客数は56万9,000人と戦前のピークを記録し、電気局はラッシュの時間帯の乗車を遠慮してほしいと利用者に要請したほどであった。
しかし、バスが満員であった一方、資材燃料の不足や補給難、物価高騰の進行などによる経費の膨張といったことが打撃となり、市営バスは再び赤字財政に陥ることになった。
第二次世界大戦に参戦し完全な戦時統制下に入ると、乗合自動車事業は更に戦時需要に対応した体制をとった。1943年2月から交通が不便なところにある軍需工場へ工員を輸送する工員バスの運転を開始した。また同年、政府の要請によってバス200両を貨物車(トラック)に改造するとともに、同年5月にはトラック専用車庫を造って貨物輸送を開始した。
この結果、車両数は1943年度末に1,616両、1944年度末に1,358両へと減少することとなる。1943年には電車との並行区間を休止したほか、9月に急行運転を廃止するのに伴い停留所距離調整を行って110停留所を廃止した。
翌1944年4月には117か所が追加廃止され、停留所数は1942年度末の728か所から、1943年度末には473か所、1944年度末には路線の縮小もあって121か所に減少した。
戦時下の要請に対応しつつ様々な施策によって輸送力の維持に努めたものの、ガソリン規制や諸設備の荒廃により、結局、乗合自動車事業の輸送能力は著しく低下することとなった。
戦時体制が強化されていく中で、東京府と東京市による二重行政を解消し、首都行政の一元化を図るため、1943年7月1日、東京府及び東京市が廃止されて東京都制が敷かれ、旧東京府の全管轄区域を所管する東京都が誕生した。これによって、東京市電気局は東京都交通局と名称を改める。